失った原風景を紡ぎ直すアートとストーリーテリング

よしおか ゆうみ(思春期相談員・家族カウンセラー)

行き場のない喪失感

中学3年生の秋、わたしは父の転勤で茨城から東京に引っ越した。友達との別れ、幼い頃から親しんできた海や馴染み深い街並を離れる際のえも言われぬ寂しさ。そして新しい都会の学校や都会の景色への戸惑いと不快感。しばらく喪失感が拭えない不安定な心のまま新しい日常に慣れようと必死だったと思う。それでも「いつでも温かく迎えてくれる故郷の人や友達」「自然の中で心楽しく過ごした原風景」の存在は、心の中に温かい空間としていつもあり、悲しみと心細さを癒し誇りを回復してくれた。

忘れてはならない一つのメッセージ

このような引っ越しでさえ、多感な時期の子どもにとっては、身が引き裂かれるような思いだったのだ。今回、福島で膨大な資料や写真などをみてショックだった。突然、これまで味わったことのない恐怖に見舞われたのだ。昨日までの日常が奪われ、全く違う景色が現れたら、その現実を受け入れて前を向くのは、大人であっても簡単ではない。根こそぎ抜かれて流される植物のように、一瞬で足元が崩れ、逆らえない運命の大波にのまれてしまうのだから。それは他人事ではなく、たまたま自分ではなかっただけのこと。

わたしたちは、常にこの身に、家族や友達に、何が起きるかわからない世界に生きていることを忘れないでいたい。大変な状況下にある人々ともつながっていて影響を与えあっていることも。

今回、危機的状況への心構えを常にもちながら生きることの大切さを知り、それを子どもたちにも伝承することが私たちの役目でもある、というメッセージを改めて受け取った。予想を超える出来事に遭遇したときの「心の備え」はどんな時代にどこで生きようとも、生き抜くために必要な知恵である。

複雑な土地から新たな創造のシンボルとしてのアートを

今回訪れた地域は、自然と原発二つが一気に被災した場所。きれいに整備された道路、広大な新開発の土地、時間が止まり放置されたままの家屋や空き地、新しい建物や施設、町の歴史や人の思いを綴った資料や掲示物、静かな海、海岸沿いの原発、廃棄土壌の貯蔵庫、廃炉資料館、被災の現状を残した請戸小学校、帰還した人々、移住者。過去に留まっているものと未来に向かうもの、壊れたもの、失くなったものと新たに創り出されるものとが共存している。

生き延びるための選択も人それぞれだ。別の土地に根付いて生きる決意をした人々、戻ってくる人。移住してくる人。そして、世代によって受け止め方も乗り越えるために必要な要素もかかる時間も違う。

だからあえて目的を掲げずに「つながる」というあり方。そこに「アート」というキーワードが何度か出てきた。土地で育んできた歴史や特徴を残しつつ、色々なあり方で新しい魅力的な町に生き返らせたい。そして複雑で多様な人々が共存するためにはアーティストの力が不可欠で、そんな土地だからこそ、きっと面白い試みができるのではないか。アートの視点で柔軟に町の魅力を創造していく未来に希望と可能性が感じられた。

子どもたちの心に潜んでいる叫び

仕事柄、親子関係などさまざまな理由で苦しむ子どもと接することが多い。親に愛され、食べ物も屋根もある生活は、当たり前ではないと思い知らされる。世界のどこかで災害や戦争に巻き込まれている子どもたちに思いを馳せて祈る。

アイデンティティを形成する10代は、自分のルーツに立ち返り確認し直す作業が必要である。私たちは無意識に、連続する日常の中にアイデンティティを見出して生活している。自分が生まれたことを肯定し、自分のあゆみをしっかりと確かめることは、思春期の危機を乗り越えるための支柱になる。ところが、ある日突然身近な人がいなくなり、周りの景色が壊れ、見知らぬ景色に変わっていく恐怖、大切にしていた馴染み深い風景が消えてしまう喪失感と将来への漠然とした不安・・・。未成熟で感度の高い脳と心には、それらをどう受け止め、向き合えというのか。悲痛な叫びを、やり場のない怒りをどこに、誰に向けて良いのか。凄惨な記憶はいつ彼らの中で終焉するのか。それは、まだ続いているのではないか。だとしたら、心に潜んでいるその声を外に出せるような工夫がまだまだ必要であり、教育現場などでもっとアートを活用してほしいと願う。

遊びとアート

 子どもは、遊びでストレスを解消し、遊びの中で学び成長する。もしかしたら、アートは遊びと同じ要素があるように感じる。実験のような試みでもあり表現もさまざまである。

 当時、被災した幼い子どもたちに「津波ごっこ」が流行った。追体験を通して辛い体験を乗り越え回復していく子どもにとって、ごっこ遊びは想像の世界の安全な遊びなので、本能的に現れる自然な姿である。第二次世界大戦時にユダヤ系家族の愛を描いたイタリア映画『ライフ・イズ・ビューティフル』は、過酷な状況に変化する中、父親がユーモアと遊び心で幼い息子の心を守り抜いた物語。人は、遊びによって「今ここにある」心を取り戻し、現実を受け止める余力を蓄えることができる。

アーティストは、それをもっとより意図的、技術的に創造することができるため、アートに触れる私たちの心、体の感覚、思考にダイレクトに働きかけてくるのだと思う。

記憶や感情を癒し理性を揺さぶるアート

 子どもたちの心を癒すためには、周囲の大人の心が整うことも並行して大事だ。自分の心に向き合い、起きたことを冷静に眺めることができたとき、自分の中でストーリーがつながり、今ここから歩み続ける新たな意欲と勇気が湧いてくるものだと思う。

災害や戦争だけでなく、変化のスピードの速い社会、時代に追いつかない教育や制度の中で、わたしたちは漠然とした不安や焦燥感を抱えて生きている。日常の小さなショック体験も、時折襲われる未来への不安も、なんとかごまかし打ち消しながら、生活に追われているのが現代人ではないだろうか。

わたしたちは、そんな日常から少し離れて、自分の原点と向き合う時間と余裕をもつことが必要だ。自分自身を“調律”し心身が整うことで、家族や周りの人々との関係性も緩やかに保つことができる。あまりにも多くのことで頭と心をいっぱいにしているので、偏った頭や心の凝り固まった回路から離れる必要があるのだ。そして現実を俯瞰して眺めることで、自分らしい時間を取り戻す。

そのために非日常のアートの役割は非常に重要である。自分では思いもよらない視座をもたらしてくれるので、普段とは違う回路で知性が動き、世界の見え方が変わる。また、大人でも子どもでも、誰にでも心惹かれる作品というものが必ずあると思う。その場で浄化され癒されることもあるし、無意識に自分の中にある感情や思考が揺さぶられて、大事なことを思い出すこともある。逆に、不快感や嫌悪感が湧いてきて、その理由を自分の中に探すこともできる。

そのどれもが、一人ひとりの心の中で起きる現象で、受け止め方も表現も十人十色だと思う。アートは、生を肯定し想像の自由を許してくれる。私は、社会のカテゴライズや役割分担から離れ、自由に想像し、考える時間と心の空間を提供してくれるように感じる。

ストーリーテリングの大きな力

最後に、福島ツアーで、被災した土地を訪ね歩く中、実際に起きたことを語りで聴く体験を通し、本人が語る言葉のもつ力を改めて感じた。中でも実際の被災経験者の言葉や文章は、突き刺すように思考や想像に働きかけてきた。そこには、変化を受け入れて生きようともがく生々しい物語があった。そして一人ひとりが微妙に違う捉え方、感情をもち、世代によっても乗り越えるテーマが異なることにも気づいた。

「ナラティブセラピー」というカウンセリング手法があるのだが、物語ることの重要性を改めて実感できた。聴き手はまるで自分がそこで生きているかのように想像し、その人の感情に共鳴するような感覚を覚える。語り手自身は、何度も語ることで自分のストーリーを紡ぎ直し、肯定し、前に進む力を育んでいるのではないかとも思った。東京に帰宅してから、関わる子どもたちに以前より意識して言葉を使ったアウトプットの時間をとり、対話を深めるようになった。言葉や物語を語ることで、過去に処理しきれなかった感情の塊が解放されて楽になることもある。

言葉の表現も言葉にできない表現も含め、アートは、人間に必要な文化的な営みの一つだと思う。魂に働きかけ、生きる意味や力を与える大きな役目をもっていると感じる。

PROFILE

よしおか ゆうみ/東京都の公立幼稚園教諭を経て、教育・子育て関連事業に携わりながら家族心理カウンセラーとして20年。多くの10代〜成人・親子・カップル・夫婦における人生の様々な場面に寄り添う。並行して、言葉の表現だけに頼らず、身体表現・アート・非日常体験などにも触れる活動を行っている。

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